”売られる” ということはどんなことだっただろうか。
『剛は血の繋がった人間によって売られた』
老婆の言葉が耳に焼き付く。
「……くっそっ……」
近くに転がっていたドラム缶を一つ殴った。
轟音と共にドラム缶が大きく歪む。
それでも耳に焼きついた言葉を掻き消すことが出来ない。
先程までの老婆の話が
何度も頭の中で廻る。
closing eyes〜瞳を閉じて〜
14:翳 参
奴隷専用の檻の中、剛は自分を舐めるように見つめていく人々を見ていた。
金銀の装飾品に身を包み、鼻に衝く程香水を振り撒いた人間が目の前を通り過ぎる。
『まぁこの子は可愛らしいわね。でも力仕事には向きそうにないわ。』
『あっちの方の奴隷にならなれるんじゃない?ほら、男が好きそうな顔立ちじゃない。』
蔑みの言葉に冷たい視線。卑しい笑いに、上で交わされる偽りだらけの社交辞令。
檻の中から見える全てが剛には馬鹿らしく思えた。
「……でも…こんな奴らに従わな生きていけへん僕は……もっとアホらしいんやろな。」
ざわめきの中、剛はポツリと呟く。
諦めたようなそんな自嘲の笑みと共に………。
すると突然、剛の檻が一気に暗くなった。
ふと顔を上げてみるが、檻の前に立っているのが誰なのか、逆光の所為で見えない。
それでも相手が興味深げに自分を見ているのだと言うことは分かって、
『自分もついに偽りの世界の下で働く”奴隷”なるのだ』と感じた。
一つ息をついて、唾を飲み込む。
酷く喉が渇いていた。
相手の手が剛の頬を撫でる。
剛はピクリと揺れた身体に気付かない振りをして、瞳を閉じた。
鼓膜に感じる、相手が呼吸をする音。
次に宣告されるはずだった”売買完了”の言葉。
でも、聴こえてきたのはそんな声ではなく。
「ねぇ、お兄ちゃん。お名前は?」
「…え…」
檻の前の人間はしゃがみこんで、檻の中の剛と視線を絡ませた。
真っ黒な髪に不思議そうに揺れる瞳。
小柄なその人間はほんの小さな子どもだった。
剛よりも随分幼い子供。
それが悠美だった。当時3歳になる、少し前。
それでもまるで5歳児のような口調で彼女は問うた。
「ねぇ、お兄ちゃんってば。お名前はぁっ?」
少し怒りを含んだ目で剛に答えを催促する。
「え…あぁ……堂本…剛…」
剛は未だに理解できてない様子で悠美に答えた。
すると悠美は花が咲いたような笑顔と言っても過言ではないくらい綺麗に笑った。
「そっかvツヨシちゃんね。ツヨシちゃん、ツヨシちゃん。。よ〜し!悠美ちゃんと覚えたよっ!!あ、悠美ね、ユミって言うの!」
子供ならではの元気のいい声で小さな掌でVサインを作りながら言う。
剛はそれに押されながら苦笑いを浮かべた。
「こら、悠美。あんた何してんだい。探しただろ?まったく、これだからチビどもを連れてくると厄介なんだ。」
愚痴を溢しながら一人の女性が悠美の後ろへと近づいて来る。
すると悠美は『リクばぁ!』と叫んで、女性の胸に飛びついた。
その光景が幼い頃の剛と母親に見えて、剛の胸に言い表せない感情が込み上げてくる。
けれど、涙は流さなかった。
中の人間の前で涙を流すことは、屈することと同じように思えて。
目頭に溜まる熱いものを悟られないように拭った。
しかしリクの目はその微かな剛の異変を捕らえる。
おんぶを強請る悠美を宥めて、リクは檻の前に屈んだ。
剛の瞳からは先程までの儚さが消え、強い光がリクに向けられる。
リクはその瞳に口角を上げると、剛に優しく語りかけた。
「お前、奴隷のようだけど。連れてこられたのかい?」
剛はリクを睨みつけたまま、首を振る。
「そうか………」
するとリクは悠美に何かを囁く。
しばらくは大人しくリクの話に耳を傾けていた悠美だったが、にっこりと笑うと剛の檻にしがみ付いた。
「待っててねっ!すぐにこの狭いお家から出してあげるから!一緒にお家帰ろうね!約束〜」
そう言うと悠美は微笑んだまま剛の目の前に小指を差し出す。
「え…」
「やぁ〜く〜そ〜く〜!!」
強請るように指を振る悠美に剛は自分の小指を絡めた。
「うそついたらはりせんぼんっの〜ますっ!!ゆびきらないっ!!」
「指切らない?」
聞きなれているようで微妙に聞きなれていないフレーズに剛が眉を顰める。
すると少女は笑って
「だって、指切ったら痛いでしょ?だから、♪ゆびきらないっ!!」
『ねっ!』と小指を掲げると、悠美は人ごみの中へと消えていった。
妙な納得と宙に浮いたままの小指が残される。
するとリクが押し殺したように笑っていることに剛は気がついた。
その笑いが勘に触って、剛は小指を下ろし、リクを睨みつける。
するとリクは『ごめん』と謝罪して、緩む口角を引き締めた。
「約束しちまったからには、お前ももうアイツから逃げられないよ?
あの子、普段はおとなしいくせに気分が高揚すると止まらないんだ。」
微笑むリクに剛は怪訝そうな顔をするが、それでもリクはその微笑を消さない。
『こいつら…一体何なんや?』
剛の頭にそんな言葉が浮かんだとき、息を切らせた悠美が一枚のチケットを片手に戻ってくる。
その額には汗さえ浮かんでいるのに、表情は笑顔のまま。
悠美はそのチケットをリクに手渡すと、今度はリクがどこかへと消えてしまった。
荒い息を整えながら、悠美が再び剛の前に座る。
「ねっ?悠美頑張ったよ!今日は大きなむぎわらぼうしのおばちゃんからもらってきたの!これで一緒に帰れるねv」
少女の言う一言一言が全く理解できない。
剛がぽかんとした表情で悠美を見つめていると突然、檻の扉が音を立てて開いた。
「出ろ。このご婦人がお前をお買い求めだ。しっかりと従うんだぞ。」
強い口調で言うポリスの後ろに立っていたのはシニカルな笑いを浮かべたリクだった。
ポリスは後ろの笑いにも気付かないまま、マニュアルを読むように続ける。
「お前の仕事はこのご婦人に従うことのみだ。生きていられるだけありがたいと思え。それから」
「あぁ。もう難しいことはわたしが直接叩き込むからいいよ。それじゃあこの子はもらっていくから。」
リクは檻の前で呆然と立っている剛の腕を引くと、戸惑っているポリスを尻目に歩き出した。
その後ろから満面の笑みを浮かべた悠美がスキップで付いて来る。
大通りに出たときに近くで小さな騒動が起こっていた。
大きな麦藁帽を被った中年女性がポリス相手に何やら怒鳴っていた。
その横を悠美がにこやかなまま通り過ぎる。
喧騒を抜けて、狭い路地へと入る。
リクは相変わらず女性とは思えない力で剛の腕を引き、悠美は何度も小石に躓きそうになりながら、スキップを続ける。
しばらく歩くと、古ぼけた研究施設についた。
セメント造りのその施設はもう外の世界にある廃ビル同様の老朽化を露にし、植物研究用のハウスは無残にも崩れていた。
その中でも所々破れかけている扉の前でリクが止まる。
剛はそこで初めてまともに口を開いた。
「僕は…ここで何をすればええんですか?力仕事ですか?子守ですか?それとも…身体の仕事ですか?」
檻の中に居た時向けられた会話を思い出して、剛は唇を震わせながら聞いた。
するとリクはしばらく唸った後、また特徴のある笑みを浮かべる。
「まぁ、身体の仕事って言ったら身体の仕事かねぇ。もしかしたら精神的にも大変かもしれないね。」
リクの言葉に剛は最悪の事態を悟って息を呑む。
「それじゃあ、しっかりと働いてもらうよ?」
ゆっくりと扉が開く。
剛は震える身体を隠して、血が滲むほど拳を握った。
未来なんて、もう自分には用意されてないんだ ――――
そう、思った矢先。。。
バァッン!!!!!
「リクばぁ〜!!リュウ兄が怖いぃ〜っ!!!」
扉が吹っ飛んでしまうのではないかと思うほどに開いて、小さな少女が飛びついてくる。
その小さな身体は勢い余って剛の身体へと倒れこみ、剛はそのまま少女を受けとめた。
「…あ、れれ〜?」
少女の目が驚きに見開く。
「カオリ〜!逃げるな!お前、今日という今日は許…さ……ん?お客様?それとも新しい婆さんの子供か?」
キィキィと悲鳴を上げる扉の向こうから一人の青年が飛び出してくる。
青年も驚きに目を見開いていたが、少しリクに視線を動かしただけで何かを悟ったようだった。
そして剛の肩にぽんと掌を置く。
「え〜っと。名前は?」
「剛だよ。堂本剛。」
リクが横から楽しそうに言う。すると青年は『あぁ』と言うともう一度剛の肩を叩く。
「剛くん?え〜。これから絶対非常にめちゃめちゃ大変だから。得にちびっ子4人組は要注意だから。頑張って。」
青年は半分涙目で言うと、うんうんと何度か頷いて再び部屋の中へと入っていった。
「…は?」
剛はその場に残され唖然としたまま、腕の中の少女を見下ろす。
すると少女は悠美と同じようににっこりと笑ってVサインを作った。
「アタシね、香織!カオリって言うの!!お兄ちゃん、ツヨシって言うんでしょ?じゃあツヨちゃんだねっ!」
すると悠美が不満そうに頬を膨らませる。
「え〜。ツヨちゃんじゃないよ、ツヨシちゃんだよ!!」
「違うよ〜ユミちゃん。ツヨちゃんだよ!だってそっちのが可愛いじゃん!!」
「ツヨシちゃんの方が可愛い!」
「ツヨちゃんなの!!」
「いや、どっちでもええがな。」
「え?」
終わりの見えない少女2人の口論に剛は思わずツッコミを入れてしまう。
すると少女たちは不思議そうに剛の顔を見上げた。
そして
「もう一回言って!もう一回!!」
「はっ!?えっ!?」
煩いくらいに騒ぐ少女二人に剛は困惑の表情のまま、固まる。
「もう一回!えっと…どっちでもえ…なが?」
「あぁ…どっちでもええがな…」
関西弁が珍しいのか、少女二人はまた嬉しそうに笑うと
「ええがな!ええがなっ♪」
と繰り返して、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「関西人が珍しいんだよ。しかし、私もびっくりだ。あんた関西人かい?
最近めっきり関西のいいツッコミが見れなくて寂しかったんだよ。これは嬉しい誤算だね。三男が関西人か。
ちびっ子どもは影響が大きいかもしれないねぇ。」
「え、三男って。」
「いいから。入ってみな。」
リクに背を押され、剛は中へと足を踏み入れる。
するとそこには木製の大きな机。
そして
「うわぁ。リュウ兄!ホントだ!新しい兄ちゃん!!ツヨシって言うんでしょ?俺、恭也。キョウヤっての!よろしくっ!」
カオリやユミよりも少し上だろうか。八重歯を覗かせて笑うと、彼は座っている少年を呼んだ。
「おい!サトル!お前もじこしょ〜かい!!」
「…あ、うん」
大人しそうなその少年は少年はとことこと剛の元まで歩いてくるとペコリとお辞儀をした。
「四男の理です。理科の理って書いてサトルと読みます。よろしくお願いします。」
「あ、いや。こちらこそよろしくお願いします。」
あまりに大人びた口調に剛までお辞儀をしてしまうと、傍で見ていたリクがくすくすと笑った。
そして一度部屋の中を見渡して、キッチンに立っていたリュウに大声で聞く。
「リュウ!うちの次男はどこだい?見当たらないけど。」
「あぁ。あいつなら今庭に行ったよ。カオリがイチゴが食べたいってぐずってさ。食べれそうなの採って来るって。」
リュウの言葉にカオリはぴくりと身体を震わせると、忍び足でその場から立ち去ろうとした。
「ちょっとお待ち、カオリ。イチゴの時期にはまだ早いってあれだけ言っただろう?」
カオリはくるりと振り返ると『だってぇ〜』と甘えた声で言う。
しかしその技がリクに効くはずが無く、カオリは一つ拳骨を喰らった。
すると『カチャリ』と遠くで音がして、一つの足音が近づいてくる。
「お。うちの次男がお帰りだ。あの男前はイチゴを収穫できたのかねぇ〜。」
リクは含み笑いを溢すと、キッチンの横の扉を指差した。
剛は促されるまま、その扉を見つめる。
コツコツと固い靴の音が扉の前で止まった。
そこで一人の青年が顔を出す。
長身の青年は片手に持てる位の数少ないイチゴを持って、扉を開けた。
「カオリ。やっぱり無理だ。まだ収穫には早い。これしか採れなかったよ。」
青年が顔を上げる。
剛と目が合うと、青年は綺麗に笑った。
「どうだい、中々見ない男前だろう?うちの次男。ハルカだよ。」
「何だ。もしかして婆さんの新しい息子?ってことは、俺の兄弟だな。遥です。よろしく…えっと。」
「ツヨシちゃんって言うの!」
ユミがそういうとカオリが少し悔しそうに頬を膨らませた。
「あぁ。ツヨシくんね。よろしく。」
その微笑みは優しく、まるで全てを包み込むようだった。
男5人に女2人の子供。それに母親役のリク。
彼女もまた世界震災で家族を亡くし、次々と身寄りのない子供たちを連れてきては”家族”として一緒に暮らしていた。
彼女は言う
「これはね。私の我侭でやってるんだ。勝手に子供を連れてきてるんだから誘拐と一緒だよ。
そんな誘拐犯に気を使う必要はない。そうだろ?剛?」
リクは呆然と立っている剛の背をひとつ叩いた。
剛の頬を一筋の涙が伝う。
久しぶりに ”嘘のない愛”に触れた気がした。
ハルカに頭を撫でられて、声を上げて泣いた。
嘘偽りの世界で見つけた、嘘偽りの姿をした、嘘偽りのない愛。
剛は声枯れるまで、泣き続けた。
いつの間にか、光一たちの目の前にいる老婆の頬にも涙が伝っていた。
隣にいたリュウの肩も微かに震えている。
「それから皆で笑った。ツヨシが散々泣き喚いた後、皆で笑った。」
「もちろんそれから喧嘩もしたし、お互いに言い合ったりもしたさ。いつも家の中は騒がしかった。」
「誰もかも、あの時の幸せは何時までも続くものだと思っていたよ。」
「あの子の中の…幸せの中に潜んでいた”狂気”が目を覚ますまでは…………。」
老婆は棚の上に乗っていた写真を下ろした。
高いところにあるにも関わらず、その写真たてには埃ひとつ残っていない。
老婆はその写真を光一に手渡した。
同時に光一の瞳が見開く。
「こいつ…さっきの奴やんけ……」
写真の中で照れくさそうに微笑んでいたのは紛れもない、ミスター20XXと老婆が呼んだ、長身の男。
そしてその男は、虚ろな瞳を剛を愛しそうに抱いていた…あの男。
「どういうことなんや、婆さん。アンタと一緒に笑っとる、こいつは何者や?」
老婆は黙る。
最初に逢った頃の気丈な老人は何処にいったのか。
儚げに微笑んで、呟いた。
「そこ子は……ミスター20XXは私の息子…ツヨシの兄、ハルカだよ。」
「なっ!何でそんな奴が剛を!って言うか、何で次男が敵に回ってんだよ!」
長瀬が解せないと言うように叫ぶ。その度に日本刀がカチャリと鳴いた。
「…悪魔の…薬…」
玲がポツリと呟く。すると老婆が大きく肩を揺らした。
その動揺とも取れる行動に光一が眉を顰める。
すると悠が小さく『あ』と声をあげた。
「それ、俺も聞いたことある…っていうか……ユミが…言ってた。その所為で…大切な人が壊れて、苦しんでるって。」
「それってもしかして」
長瀬が老婆を見ると、老婆は小さく声を上げて涙を流す。
すると隣にいたリュウが目を真っ赤にして答えた。
「悪魔の薬。一般的にはあまり知られてないけど、ポリスやEPの奴らには有名な薬だよ。
ドラックや覚醒剤と同じ部類に入る。でも大抵はEPの奴にしか使わない。
”痛覚を鈍らせ、恐怖感を拭い、その奥底に眠る憎悪を引き出す”飲んだ人間はさながら悪魔のように狂う。
それが”悪魔の薬”…正式名称”20XX control”それを最初に持ち出した人間がハルカ、ミスター20XXだ。」
リュウは言い終わると厳重に鍵の掛けられた棚へと歩み寄る。
そして暗証番号を入力すると、棚の中から小さな小瓶を取り出した。
中に入っている数粒の白い錠剤。
ラベルには”20XX control”
光一は小瓶を手に取る。
一見は普通の白い風邪薬と同じ。しかしその効力は…人を操り人を壊すことが出来る。
小瓶の向こうで老婆が歪む。
流れる涙をそのままに老婆は静かに言った。
「それを作った最初の人間が…この私。ハルカが狂ってしまったのも、ツヨシが未だに苦しんでいるのも。
私の狂気から始まったんだよ。
震災で家族をなくして、私は寂しくて悲しくてやりきれなかった。だから、誰かを連れてこようと思った。
”人を操って私の元に置いておこう”そう思った。きっと誰よりも狂っていた。
そして作り上げて、私はそれを一人の少女に試した。道端で蹲っていた言葉もまともに喋ることが出来ない少女に
一錠与えた。それがユミ。おそらく悠くん、キミと離れ離れになってしまってすぐ……私は2歳にもなって間もない子供に
悪魔の薬を与えたんだ。」
悠の表情に驚きと憎しみが宿る。
その色を感じ取って、光一は片手で悠を止めた。
「するとまだまともに喋りも出来ないはずの子が私に言ったんだ。虚ろな瞳で妖しく笑って。
”おばちゃん。私のお兄ちゃんを返して。私を連れてきたあのおじさんを殺す武器を頂戴。”と。
背筋が凍ったよ。”ポリスに連れてこられた所為で兄と離れ離れになった”と理解して、3歳に満たない子供が
”殺すために武器をくれ”とせがんだんだ。”ヒーローになって怪物を倒すんじゃない”
”自ら殺人鬼になって人間を殺すんだ”と。一気に自分の作ったものの恐ろしさを知った。
狂った科学者の手からは狂ったものしか出来なかった。
薬の効力が切れたあともユミは3歳になってもいないのに5歳児並の言葉を操った。
6歳のカオリと同じくらいの言葉で私に話しかけてきた。その度に、傷が疼いた。」
「何で、そのままそんな危ない薬を処分もせずに持ってたんや!?」
「処分しようとしたさ!でも処分するったってどこにするんだい!?普通にごみとして捨ててみな。
絶対にもう出てこないとは限らない!私の手で私しか知らない場所に持っておくほか、方法はなかったんだよ!」
老婆は涙で濡れたまま、叫んだ。
その悲痛な叫びは木造の家に吸収され、染み付く。
「不安でたまらなかった。だから、あの棚と同じような棚を作って。20XXに関するものすべて隠した。
誰にも見つからないように。床下に埋めて、暗証番号も絶対に言わなかった。なのに。ハルカは見つけてしまった。
私の実験室にあった、薬を使って。20XXを作る方法を見出してしまったんだ。」
「作る方法を見出したってのは……自分で作っちまったってことか?」
長瀬の言葉に老婆は力なく頷く。
「ハルカは…頭のいい子だった。私の研究全てを理解し、説いてみせた。
一応震災前はこれでも名の通った科学者だったんだよ。それが私も結局は一度狂ってしまった狂科学者。
それをあの子は感じていたのかもしれない。無意識のうちに、取り込んでいたのかもしれない。」
老婆は俯き、頭を抱えた。
小さな身体に沢山のことを抱え込み、蹲る老婆は……涙を流す。
「ハルカは…20XXを作り上げて狂った。己の不安に負けて狂ったんだ。
ツヨシを…他のやつに取られるかもしれない、という不安に…。
ハルカは……ツヨシへの強すぎる愛情に狂った。だから…ツヨシに薬を……飲ませたんだ。」
「それじゃあ…」
虚ろな瞳の剛が蘇る。
彼の虚ろな瞳の奥には ―――――
「さっきも言ったよな?20XX controlは人間の奥底に眠る憎しみを引き出し、痛覚・恐怖感を消す。」
光一は全身が脈打つのを感じた。
このリュウの言葉の先にある答えが目前に見えていた。
全ての話を頭で整理する。
震災で両親を失った剛。
一人、外の世界を彷徨って、親戚夫婦に助けられ
そして
売られた
信頼していた人間によっての裏切り
「信頼というものから裏切られた剛は」
「信頼を殺すために……狂った。」
リュウは長袖の古びたTシャツを捲る。
その腕には痛々しく残る銃痕。
「剛は、自分が信頼しているもの全て殺そうとした。ここにいた家族全てに初めて握る銃を掲げて。」
「俺たち家族を……殺そうとしたんだ。」
向日葵のような彼は沢山の雨に打たれすぎて、
地面にその身体を横たえていた。
何も言えなくなっている光一たちにリュウは語る。
「でも安心しろ。ツヨシは俺たち家族を一人も殺してなんかいない。殺そうとしたけど、初めて持った銃は剛には扱えなかった。
あいつが狂ったのは18の時だったけど、相変わらず非力でな。銃なんか持ってるだけで精一杯。
撃つとその反動で自分が危ないんだ。そんなこんなしてるうちにツヨシの薬の効力は切れて、ツヨシは正気に戻った。
でも…ハルカは薬で壊れたわけじゃないから……正気には戻ってなかった。
正気に戻ったフリをして、今度は自分の手で俺たちを殺そうとした。狂ったハルカに誰も…敵わなかった。」
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